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ストーリー

【歴史と偉人に学ぶ 経営の本質】渋沢栄一に学ぶ、サステナブルな経済・経営を生み出す構想力とは? ≪その3≫

2024年からの新一万円札の発券の発表や、2021年の大河ドラマ「晴天を衝け」の放映により、全国民レベルで注目が集まることが予想される渋沢栄一。資本主義が限界を迎え、予期せぬコロナ禍によってますます混乱を深める世界にあって、同様に明治維新の混乱期に赫赫たる成果を上げた渋沢の思想と行動は、現代の経営者にとって大いに参考になります。

渋沢は、第一国立銀行(現みずほ銀行)、王子製紙など日本を代表する500社の創業に関わるだけでなく、商法講習所(一橋大学の前身)をはじめ、600の公益組織の立ち上げにも関与。明治政府の殖産興業政策を牽引した功績はいうまでもありませんが、その背景には、視界不良の中で、サステナブルな経済社会を創造するためのグランドデザインの設計力が光っています。本稿ではこの渋沢の構想力を掘り下げ、歴史的背景も踏まえながら、現代経営への応用のヒントを導き出します。

わかりやすくするため、経営者、投資家、社会起業家としての多面的な活動の元となる渋沢の思考フレームの特徴をまとめると、合本主義、道徳経済合一説、経済社会システム創造の3つに収斂されると思われます。今回、≪その3≫では、経済社会システム創造の観点から渋沢の構想力について考察してみましょう。

渋沢が視察に訪れたフランスは、なぜ産業発展を成功させていたか
~フランスの産業革命を読み解く~

徳川昭武のパリ万博視察団
図1 徳川昭武のパリ万博視察団

30歳から、91歳で死去するまで60年以上にわたる産業人としての活動期間に、営利非営利含め1,000以上の組織の立ち上げ、経営に関与した渋沢の精力的なエネルギーには、驚嘆するしかありません。その背景に何があるのか? どのような考え方や手順によって、高度にシステム化された社会経済を構想し、実装していったのか? これらは大いに気になるところです。

この謎を解明するには、まず渋沢一行のパリ万博滞在時の接遇を務めた、幕府委嘱の名誉総領事ポール・フリュリ・エラールがキーマンになってきます。渋沢は、この元銀行家であったエラールを通して、パリ万博視察から株式会社、銀行、および公債の仕組みを学んだとされています。しかし、滞在期間は1年以上あったことから、彼が得たものはこれだけではないはずです。

ここで、渋沢が目にしたパリがどのようにして産業発展したのか、すなわちフランスの産業革命がどのような背景から実現されたのかを捉えておきます。当地での第二帝政時代、ナポレオン統治下のフランスの情勢を素描してみしょう。

当時、ナポレオン三世の第二帝政を動かしていたイデオロギーは、サン=シモン(1760-1825)の提唱したシステム産業主義ともいえる思想でした。サン=シモンは天才型の思想家であり、波乱万丈の人生の中で、あらゆる知識体系を統合し、実社会の改革を成し遂げようとしました。フランスの産業革命は、このサン=シモンの思想が底に流れています。

サン=シモンは、物理学、生理学、解剖学等を修得し、人体のメカニズムを究明していきました。注目したのは人体の恒常性維持の仕組みです。そして、水や食物の吸収、酸素や二酸化炭素の循環や血流によって成り立っている有機体の仕組みを社会においても取り入れれば、循環型の世界が成り立つのではないかという発想を持つに至りました。

つまり、鉄道、道路、運河といったインフラを整備し、貨幣、知識、ビジネスをネットワーク化し、循環させることで、活動成果としての富が蓄積されていく。そういった富の再配分によって行政機能を賄える。サン=シモンは産業を発展させることで、暴力革命によらない近代国家が実現できるのではないかという構想を描くのです。

そして、この産業のネットワークを支えるのは、結局のところ仕事に従事する“人”。つまり「産業人による、産業人のための、産業人の社会」を創ろうというのがサン=シモン主義の中心概念でした。

階級対立が生み出したフランス革命(1789年)が、結局サステナブル(持続可能)な政治体制を創ることができなかったという反省のもと、サン=シモンは労働者の解放は、階級闘争によってではなく、産業の発展によって実現できると考えました。

そして、この革新的な産業創造理論は、当時亡命中であったルイ・ナポレオンを大いに感化しました。混乱する当時の政治情勢の中、ルイ・ナポレオンがナポレオン三世として帝位についたとき、彼はサン=シモンの思想を実行に移すタスクフォースを編成。このサン=シモンチルドレンともいえるチームによって、フランスの産業革命が加速されていったのです。

例えばナポレオン三世による第二帝政時代下の約20年の間に、鉄道営業キロ数は約5倍になり、それに伴い炭鉱業や製鉄業も飛躍的に伸びました。またインフラの改革としてパリの大改造も行われ、それまで路地が入り組み、汚物が散乱して疫病の発生源ともなっていたところ、人体を模した循環機能(交通網)と機能美を備えたパリに再生されました。

パリ市の交通網
図2 パリ市の交通網

この第二帝政が開始されたのが1852年、そして渋沢栄一がパリ万博の視察で到着したのは1867年。この15年の間にフランスは産業革命の仕上げ期を経て高度産業社会へ生まれ変わり、それを渋沢は目にすることとなったのです(※1)。

ポイント

  • 貨幣、知識、ビジネスをネットワーク化し、循環させることで、活動成果としての富が蓄積されていく
  • 階級闘争によらない産業発展による「産業人による、産業人のための、産業人の社会」の実現が重要

産業創造をシステムとして見立て、自身の構想を実装、産業社会を創造する

渋沢のヨーロッパ視察において、自身の陳述記録からは、サン=シモン主義をどれだけ認識していたかは明確ではありません。しかし渋沢が見たものは先述の通り、サン=シモン主義者たちが創り出した、銀行の開業、鉄道の敷設、都市づくり、運河の掘削といった産業社会システムそのものでした(※2・※3)。そしてそのエンジンとなるのが株式会社(合本組織)だったというわけです。

本人の直接的な言及は記録にないものの、渋沢の後年の活動から見ると、大きな構想と、産業をコアになるものからシステム的に組んでいくフランスをヒントにした発想が随所に表れています。

渋沢は、まず先に銀行を創り、そして銀行協会を立ち上げます。銀行の次に産業界を代表する商工会議所を創り、財界としての交渉力を持とうとし、その次には鉄道、海運、ガスといったインフラ機能を担う事業に参画。

また、ソフトなインフラという意味合いでは王子製紙という製紙会社を起こしているのがユニークです。渋沢は、知識情報の伝達媒体となる紙にも注目していたのでした。これは現代でいうところのインターネットの役割と重なります。さらにその後には、紡績会社、ホテル……と生活産業を興していったことから、全体の構想からしっかりと優先順位をつけて取り組む産業デザインの戦略が見えてきます。

王子製紙
図3 王子製紙

また、同時進行で合本主義の人的資本への対応として、将来の人材育成機関としての商法講習所(一橋大学の前身)の立ち上げを支援している点も重要です。さらには、並行して日本赤十字社、養育院といった、健康や社会福祉を支える機能やセーフティネットの構築に踏み込んでいることにも注目すべきでしょう。

人材育成機関としての竜門社、人脈作りのための渋沢同族会

さて、産業ネットワークのフレームを思想したとして、それを支える“人”なしには実現・維持しないことは明白です。分刻みで毎日多数の面談をこなしていた渋沢といえど、民間企業500社、公共団体600に関与するには、当然一人ではできません。外部人材は教育機関の設立によりある程度賄えるとしても、重要なのはコアとなる企業に送り込むグループ内部人材です。

そこで、この人材育成を行うために拠点となったのが「竜門社」という組織でした。竜門社は優秀な学生を書生として抱え込み、将来の経営実務者の育成に努めました。さらに、外部から若手社員を会員として取り込みます。

一方で、企業の経営者、マネジメントクラスも特別会員として集め、人材育成を行っています。そしてのちにこの人材育成機関自体を財団化しました(現渋沢栄一記念財団)。ちなみに竜門社の「竜門」は、将来有意な人物の登竜門といった意味から来ています。

さらに渋沢は、家族関係においても、渋沢同族会を形成するなど潜在的な構想力をいかんなく発揮します。
当時、家長権限が圧倒的に強かったという背景もありますが、有為の人材に娘を嫁がせることで優秀な人材を集めました。長女を嫁がせた先でもある、日本における民法の第一人者の穂積陳重には渋沢家の家法制定を託し、社会に貢献する渋沢家の一員としてのミッションを定めるとともに、巨額な資産を持つ渋沢同族会のリスクを排除するルールを決めました。

これにより、財産分配の決め事や、投機的な案件への投資、債務保証に同族が安易に関与しないような制度を設計。そして、後にこの同族会の役割を一部、株式会社化し、渋沢同族株式会社として運営しました。こうして、増えた資産分だけを新規出資に回すといった「富を内部に抱え込まずに国の繁栄に資する資産運営」を徹底して行いました(※4)。

まとめ

以上、3部にわたり、渋沢栄一のグランドデザインを描く力・構想力を浮き彫りにし、現代に活かせる視座を捉えるため、ヨーロッパ視察時の動向や、同時代の英米の企業家の思考・行動と対比して見てきました。

渋沢の構想力の特長は、
1 大局的なスタンスに立ち、大義(合本主義)による目的を明確にし、その上で、様々な個別事象と全体の関係を読み解き、核となっているものを見極める
2 そして、利害関係者間の経済合理性に基づくフローを解明し、成功するためのあるべき構造を読み取っていく
3 さらに構造化したものを、着々と一体的に実装して繋いでいく
といった点にあるといえます。

その背景には、それらを包含する一元的な理念や、哲学を形成する力が見受けられます。
二元論には様々な矛盾やコントロール不能な状況が生じますが、一元的な原理ではそれがありません。多元的なものを一元的に統合していく思索を極めていくことで、あらゆる物事が鮮明かつ、合理的に言語化でき、説明でき、強い推進力が持てるようになります

さて、その一元論を渋沢はなぜ可能としたのでしょうか。それには「仁」「義」という抽象度の高い普遍的概念を用いつつ、論語の語彙を借りて、矛盾のない独自の哲学(道徳経済合一説)を構成していったことが大きいといえます。普遍的な概念から説き起こしたフィロソフィーを持つことで、常に大義を立てながら発想し、経営をし、外に対しては筋を通して交渉していくことができるようになります。

曲折に満ちながらも、大構想を描き、筋を通して生きた渋沢の姿は、人間味に溢れ、物語性に満ちており、日本における歴史的なスターの一人であるといっても過言ではありません。
遠い存在として見るだけでなく、世の中の秩序が大きく変わろうとしている今、この現代にこそ、渋沢栄一にヒントを得て、改めて視座を高め、一段大局的な観点から、自社の経営理念や哲学を見つめなおし、サステナブルな事業構想を描いてみるとまた違ったものが見えてくるかもしれません

文=オンデック情報局

 → 【歴史と偉人に学ぶ 経営の本質】渋沢栄一に学ぶ、サステナブルな経済・経営を生み出す構想力とは?≪その1≫はこちら
 → 【歴史と偉人に学ぶ 経営の本質】渋沢栄一に学ぶ、サステナブルな経済・経営を生み出す構想力とは?≪その2≫はこちら

引用および参考文献

※1 サン=シモンとサン=シモン主義 ピエール・ミュッソ著 杉本隆司 白水社
※2 サン=シモン主義と渋沢栄一 鹿島茂 明治大学国際日本学研究 1(1)
※3 渋沢栄一における欧州滞在の影響―パリ万博(1867 年)と洋行から学び実践したこと―関水信和
※4 渋沢栄一 社会企業家の先駆者 島田昌和 岩波新書

その他参考文献

・雨夜譚 渋沢栄一自伝 岩波文庫
・渋沢栄一~日本のインフラを創った民間経済の巨人 木村昌人 ちくま新書
・渋沢栄一を知る辞典 渋沢栄一記念財団 東京堂出版